アイドルLovers(18禁)
第九章 幸せと恐怖
芳樹は、数度躊躇ってから、呼び鈴を押した。 インターホンから「鍵開いているから入って」と声が聞こえて、芳樹は、ドアノブに手を掛けた。 ここは、兄夫婦の住むマンションの部屋の前だ。約束通り、夕飯を御馳走になりに来た。 悠斗に失恋したことや、気味の悪い贈り物のことが気がかりで、とても人に会う気分ではなかった。 だが、義姉はすでに、料理を用意してくれているだろうし、突然キャンセルをして迷惑はかけたくない。 芳樹はノブを掴んだまま、心の中に冷たくわだかまる黒い影を押さえるように呟いた。 「いつものようにしなきゃ」 いつもの、湧井芳樹にならなければいけない。兄夫婦の前で暗い顔など見せれば、いらぬ心配をかけてしまう。幸せな兄夫婦の負担になるようなことだけは、絶対にしてはならない。 「今から、俺はいつもの湧井芳樹だ」 口に出して、芳樹は意識を切り替えた。 感覚的には、演技のスイッチを入れたといったところか。 今から芳樹は兄達の前で見せる『いつもの自分』を演じるのだ。 ドアを開いて、玄関の中に入った。 「こんばんは」 声を上げると、廊下の奥にあるドアが開いて、小さな人影が走り出てきた。 突進してくる子どもを目にとめて、芳樹は靴を脱いで持っていた荷物を床に置いた。 膝をついて、抱きついてきた小さな体を受け止める。 「よっくーん。いらっしゃーい」 甥の晴樹だった。くりくりとした大きな目は母親似。口元は兄の秀樹にそっくりだ。 叔父の欲目を抜きにしても、かなり可愛い子どもである。 芳樹はそのまま彼を抱き上げた。 「わっ! 高ーい」 きゃきゃと喜ぶ甥っ子に、重く沈んでいた心が少し軽くなる。 「晴樹、またちょっと大きくなった?」 前に抱っこした時よりも重くなった気がして、彼を覗きこむように問いかけた。晴樹は笑顔を作った。 「この間ね、背、測ったらね、ちょっと大きくなってたよ」 そう、と相槌を打った芳樹の耳に、女性の声が届く。 「いらっしゃい、よっくん。そんな所でお話してないで、部屋に入って。秀くんももう帰ってきてるのよ」 パタパタとスリッパの音を響かせて、義姉の恭子が芳樹のもとへやってきた。 晴樹と良く似た大きな目を、芳樹を見て嬉しそうに細める。 そんな義姉に、芳樹は足元に置いていた荷物を視線で示した。 「これ、お土産です。お菓子と、義姉さんに化粧品」 芳樹が言うと、恭子は足元に置いてあった二つの紙袋を手にとって、小さい方の紙袋の中を覗いた。 「わぁ。美王化粧品の……」 「この間、CM撮影のとき、試供品をいっぱいもらっちゃって。俺は使い道ないから、よかったら義姉さん使ってください」 芳樹が微笑むと、恭子は嬉しそうに頬を紅潮させた。 「ありがとう、よっくん。これで、しばらく化粧品買わなくてすむわ。節約、節約」 歌を口ずさむように、節約、節約と連呼しながら、恭子はリビングへ向かって歩き出した。 晴樹を抱っこしたまま、リビングに入ると、兄の秀樹がダイニングテーブルの上に並べられた豪勢な料理を、つまみ食いしている所に出くわした。 「あ、秀くん。つまみ食いはダメって言ったでしょ」 恭子がぷーっと頬を膨らませる。子どもっぽい仕草が、童顔の彼女には良く似合った。 確かに、部屋には食欲をそそる良い匂いが充満しているし、つまみ食いしたくなる兄の気持ちは分からないでもない。 しかし、子どもの前でつまみ食いは、やはりまずいだろう。 「わるい。あんまり美味しそうだったからさ。実際、美味しかったよ」 秀樹は、妻に甘い声をかける。恭子は、本気で怒っていた訳ではないらしく、口ではもうっと、文句を言いつつも笑った。 相変わらず、アツアツだな。 芳樹はそう考え、晴樹を床に下ろした。 晴樹は、父のもとへ走ると、足に抱きついた。秀樹は晴樹の頭を撫でる。 「パパ、よっくんと、ゲーム。ゲームしていい?」 「だーめ。ご飯が先だ。芳樹、よく来たな。最近顔出さないから、寂しかったぞ」 秀樹は息子から、弟へと目を向けた。精悍な顔立ちの秀樹と、柔らかい雰囲気の顔立ちをした芳樹は余り似ていない。 「ごめん。最近忙しくって」 芳樹は曖昧に笑顔を作った。 せっかくの料理が冷めてしまうから。と、いう義姉の言葉で、夕食が始まった。 夕食の席は終始にぎやかだった。 芳樹は当たり障りのない近況を述べ、兄は会社の愚痴を面白おかしく芳樹に話してくれた。 食事を終え、芳樹の手土産のケーキが、食後のデザートとして食卓に饗された。 晴樹が、アニメが見たいと言い出し、テレビを見ながらケーキを食べることになった。 テレビにくぎ付けになっている晴樹の頬に、生クリームがついていることに気付く。芳樹はテレビから視線をはずして、晴樹の頬についているクリームを指でぬぐって舐めた。 『恋する女の、誘惑のルージュ』 テレビから、そんな声が聞こえて、芳樹はびくっと体を震わせた。 そっとテレビ画面に目を戻すと、案の定、芳樹が女装して出演している、美王化粧品のCMだった。 「うわっ、ちょ、消して、テレビ」 慌てて芳樹は声を上げた。 だが、兄の家族は芳樹の声を一切無視して、画面を食い入るように見つめている。 『あなたは、どの色で誘惑する?』 そんな台詞とともに、CMが切り替わった。 内心ほっとしたが、それでも恥ずかしいには違いない。隠れる場所があれば、速攻その場所に逃げ込んでいただろう。 「何、恥ずかしがってるんだ。別にいいじゃないか。綺麗なんだし。会社でも評判いいぞ」 兄が、ニヤニヤした笑い顔を向けてくる。 「ねぇ、よっくん。あのCMの声も、よっくんじゃない?」 義姉の問いに、芳樹は頷いた。 そう。CMのナレーションも、芳樹が担当していた。 隣に座る晴樹が、芳樹の袖を小さな手で、引っ張った。 「ねえ、よっくんは、女の人なの?」 「えぇ?」 真剣な表情で見つめてくる晴樹の幼い顔を、芳樹は驚いて見つめた。 「よっくんが、女の人だったら、ボク、よっくんをお嫁さんにしてあげるね」 思いもかけない、甥っ子の言葉に、芳樹は唖然とした。 兄と義姉は、息子の言葉に大爆笑である。 笑ってないで、なんとか言ってくれと芳樹は思う。 だが、二人は、何も言葉を挟む気はないようだ。笑いながら、芳樹を見ている。 芳樹は、苦笑した。 「えーっと、晴樹。俺は、男だよ。だから、結婚はできないなぁ」 「えーっ。でも、よっくん、テレビでは、女の人でしょ? 変身したの?」 腑に落ちない顔付きで、晴樹は問う。 「んー、変身っていうか、その……」 芳樹は助けを求めるように、兄を見た。 兄は、ようやく笑いを納めて、息子に声をかける。 「晴樹。よっくんは、女の人じゃないよ。お仕事で、女の人の格好をしただけだ。だから、晴樹と結婚できない。けど、よっくんは晴樹の叔父さんだし、結婚しなくても家族だから」 聞き慣れた優しい口調。暖かな兄の声が、胸に沁みる。 晴樹は納得できないのか、首を傾げた。 「えー。よっくんは、おじさんじゃないよ。お兄さんだよ」 「晴樹、おじさんっていっても、年をとっているってことじゃなくて、よっくんは、パパの弟でしょ。だから、パパの弟は、晴樹の叔父さんになるのよ」 恭子が教える。晴樹は大きな目をさらに見開いた。 「えっ。よっくん、パパの弟なの?」 晴樹は、持っていたフォークをぐっと握って、驚きの声を上げた。 驚くのはそこなのか。今まで、晴樹は芳樹の事を何だと思っていたのだろう。 芳樹の疑問に、晴樹は当たり前のように答えた。 「だって、よっくんは、よっくんでしょう」と。 晴樹にとって、芳樹は、アイドルの『ヨシキ』でも『叔父さん』でも『パパの弟』でもない。ただの『よっくん』なのだ。 芳樹はそれがなんだかすごく、嬉しかった。この家に入る前に、自分の中で、いつもの芳樹を演じようとスイッチを入れた。それでも、胸の奥底で燻っていた黒い影。その重苦しい影が、随分、薄らいだような気がした。 食後のデザートを食べたあと、晴樹が疲れて眠ってしまうまで、テレビゲームをして遊んだ。 時刻は九時をとうに超えていて、電車で帰ると言った芳樹を、半ば無理やり、兄は車に乗せた。 車を芳樹の自宅マンションがある方向へ走らせながら、兄が芳樹に声をかける。 「芳樹。荷物って、何のことだ?」 何気ない口調の問いかけ。 芳樹は思わずはっと息を飲んだ。 車が、赤信号で止まった。 兄は、運転席から、助手席に座る芳樹の顔を見る。芳樹は俯いた。 「何か、悩み事でもあるのか」 悠斗の顔と、昨日今日と立て続けに届いた、謎の贈り物が脳裏に浮かぶ。巾着袋に入っていた、黒髪を思い出して、体が震えそうになった。 兄に、話してしまおうか。 そんな誘惑に駆られる。 悠斗の事は別として、謎の贈り物のことなら、兄に話してしまってもいいかもしれない。 兄なら、きっと芳樹を心配して、なんらかの手を講じてくれるだろう。 けれど。 青信号になった。車がゆっくりと動き出す。 芳樹は顔を上げた。 「悩みがないとは、言わないけど、そんな深刻なものじゃないし。大丈夫。あと、荷物のことだけど、差出人が誰か分からないのが届いて、知り合いにかたっぱしから聞いてただけだから」 兄は、少し間を開けて、答えた。 「そうか。で、送り主は誰か分かったのか?」 「うん。友達だった。差出人の欄に、名前書き忘れたみたい」 芳樹は嘘をついた。 兄は、騙されてくれるだろうか。 ドキドキとしながら、兄の言葉を待つ。 「そうか。なら、よかったな」 兄の言葉に、胸をなでおろした。 兄に迷惑はかけられない。それでなくても、芳樹は兄に面倒ばかりかけてきた。これ以上、兄に甘える訳にはいかないのだ。 兄は結婚して、一児の父となった。幸せな兄の家族。余計な面倒事に、巻き込む訳にはいかない。 これは、自分の問題なのだ。 自分で、解決しなければならない。 「着いたぞ」 肩を揺すられて、芳樹は目を覚ました。いつの間にか、眠っていたようだ。自身が思っている以上に、疲れていたのかもしれない。 車は、マンションの前に停まっている。 「ありがとう」 礼を言って、車を降りると、なぜか兄まで下りてきた。 兄は、車の前を回って、芳樹の正面に立つと手を広げた。 芳樹は苦笑した。 兄の意図を察したのだ。 芳樹は兄に抱きついた。 知らない人が見れば、驚くだろう。夜とはいえ、男同士が、路上でどうどうと抱きあっているのだから。 だが、コレは芳樹と兄との間で、昔から良く交わされていたハグである。つまり、挨拶だ。 いってらっしゃい、おかえりなさい、おやすみなさい。そのたびに、ぎゅっと抱きしめられた。 「おやすみ。芳樹。体に気をつけて。たまには、家に顔だせよ」 兄の、昔から変わらぬ優しい声音が耳をくすぐる。十三歳年上の兄は、芳樹にとって、父のような存在でもある。 芳樹は、うんと返事をして兄と離れた。 去って行く、兄の車を見送ってから、芳樹はマンションへ入った。 部屋に着き、リビングの電気を点ける。 その直後。電話がなった。 携帯電話ではなく、固定電話の方だ。 「もしもし」 『今まで、あの男と一緒だったのか』 掠れたような、低い男の声が、受話器から聞こえてくる。 怒気のこもったその声に、芳樹はただでさえ冷えていた部屋の温度が、一気に下がったような錯覚に陥った。 「誰?」 受話器を握る手が、震える。 あの男って誰のことだ? 兄と一緒に居たところを、電話の相手は見ていたということか? 『今度浮気したら、ただじゃおかない』 浮気という単語に、違和感を覚える。 どこかで聞いたことがあるような気がするが、思いだせない声。 『二度目はない』 そう言って、電話は一方的に切れた。 ツー、ツーっと、受話器から音が漏れ聞こえる。 呆然と通話の切れた受話器を見下ろした。 芳樹はゆっくりと背後を振り返る。 そこには、テーブルに置きっぱなしになっていた、巾着とクマのぬいぐるみが仲よく並んでいた。 |
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